ボジュ!鈴木隆芳(すずきたかよし)です。

 

前々回はコミュケーションの難敵とどうやってわかりあうか、ということ

について結論に至らないまま放置していましたが、今回はなんとかこれに

活路を見出したいと思っています。

 

ところで、コミュニケーションが難しい相手ってどんな人でしょう?

 

1. 異性(うん、確かにね。実感。)

2. 年長者(リスペクトを込めてあえてこう呼ぼう。)

3. 外国人(言葉ちがうし、文化ちがうし、と言うか、いろいろちがうし)

 

そこで、いきなり結論なのですが、

それは、ずばり「ネコになろう!!」です。

 

にゃん?(ヒト語訳:えっ?)

 

ディベートをしたことはありますか?

あるテーマについてYESNOの立場に分かれて、論を戦わすあれです。

例えば「愛情と友情は両立するか?」とか。

ディベートを有利に進めるためには、主張の根拠となるデーターや証拠

を示しつつ、相手の論拠の弱点を攻めることが肝要ですね。

ですが、ここで言いたいのは、こうしたディベート戦術は、実際のコミュ

ニケーションではうまくいかないこともあるんじゃないか、ということです。

 

aikoさんの歌「愛の病」には、「この出会いであたしのからだが変わって

ゆくものなんだって照れくさくて微笑みました」という一節があります。

これって、ディベートでは絶対ありえない展開なんです。

「あなたのおかげで私は変わったわ。うふ」なんてラブリーな表明をしたら

即敗北です。だって、ディベートでは、自らの立場を堅持して自分は変わらない

まま、相手の考え方だけを変えることが要求されるからです。

実際のところは、相手も相手で「私は私よ!一歩も譲れないわ!」と思っている

んだから、これはもう壮絶なバトルになります。

 

はい。そこで、ネコです。仮装やコスプレって、ちょっとあやしい魅力を感じるでしょ。

その魅力をつきつめていくと、自分が自分とちがうものなることだと思うのです。

これがなぜコミュニケーションのヒントになるかと言うと、自分が今のままでいること

にこだわっているかぎり、相手も同じようにするのではないか、ということが想定され

るからです。

ネコって、人にすり寄りながらも、それでも自分を失わないでしょ。だからイメージ

キャラクターとして良いかと思いまして。

あ、でも、完全にネコになっちゃだめです。まあ、なろうとしてもなれないけど。

ヒト→ちょっとネコ→かなりネコ→ほぼネコ→ネコの中間段階にとどまることです。

 

先のaikoさんの歌にもあるように自分が変わることはちょっと照れくさいんだけど、

相手との白黒はっきりした対立する立場をいったん離れることが大切なのではないか

と思うのです。良い意味でのグレーゾーンね。

 

外国人と話すために外国語を学んだり、年長者と接する時にちゃんとした言葉づかい

をしたりすることも、相手と自分の差異を滑らかにして、なんとかコミュニケーショ

ンを成立させようとしているんじゃないかな。

これって、コミュニケーションについて一般に言われていることと少しちがうと思い

ませんか? 

表現力や聴解力のようなスキルでもないし、相手を納得させるような説得力でもないし。

 

こんな短歌があります。

 

子がわれかわれが子なのかわからぬまで

子を抱き湯に入り子を抱き眠る

                河野裕子(かわのゆうこ)

 

アイデンティティーや個性を追求することにがむしゃらな私たちは、おたがい

が溶け合うほどまで寄り添う母子の姿に虚をつかれます。肌の輪郭を超えて

母と子が通い合うさまを目の当たりにすると、口角泡を飛ばしながら主張される

自己や個性などは、本当のところは、ぎすぎすとやせ細ったものなのかもしれません。

「私は私なの!」と、他人とはちがう色で自分を塗りつぶすことに躍起になって

いるようでは、コミュニケーションも難しいのではないか、と思うのです。

 


今回の参考図書:鷲田清一『じぶん・この不思議な存在』講談社現代新書。

高校生にも読めるようわかりやすく書かれていますが、なかなか刺激的な

エピソードが盛り込まれています。なんならこっそり読もう。これも私のゼミの教科書。

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鈴木隆芳
経済学部 経済学科
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